フィギュアスケートとX JAPANと聖書。

たとえあなたが許しても神の裁きに影響はない

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この記事が気になりました。



兄を殺された弟が、兄を殺した殺人者を許した、ということです。

いかにもアメリカっていう話ですね。

ヤフコメでは
「クリスチャンだから?」「自分にはムリ許せない」「家族が許したならそれでいい」「それでも厳罰に処すべき」

といろいろありました。

皆もどう判断していいかわからないようですね。

私はこの記事を参考にして考えてみました。



弟が被告を許したのは彼にとっていいことです。心の平安を得られるからです。

もしかしたら彼は自分の精神の安定のために許すと言ったのかもしれません。

生涯恨んで苦しむよりはずっとマシだからです。

しかしそれと被告が無罪かどうかはまた別問題です。

裁判は裁判で、私情をはさまず厳密に行われなければいけません。

家族が許したということを陪審員は考慮にいれてはいけないと思います。

聖書にもこうあります。

「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」
出エジプト記23章3節

ここでの”弱い人”は、この被告にあたるといえます。

彼女に殺意はなかったようなので、そこは情状酌量の余地があるかもしれません。

でもどう考えても、自分が襲われてもいないのにいきなり発砲したのはやり過ぎです。

私はこの被告に全く同情しません。

警察官としてのこれまでの職務云々、というのも関係ないと思います。

警察官としてコミュニティの役に立っていたというのであれば、道路工事の人だって役に立っていたわけです。

私にはどうもこのアメリカの風潮というものがよく分かりません。


ところで私たちも同じような立場に立ったら、自分の家族を殺した相手を許すべきなのでしょうか。

結局のところ許す許さないもその人の自由なのです。

許したい人は許せばいいし、許したくない人は許さなくてもいいのです。

私たちが許そうと許すまいと、亡くなった人が帰ってくるわけではないからです。

しかし殺された人にしてみたら、自分を殺した人間を許すなんてとんでもないことでしょう。

忘れてはいけないのは、このケースのように不幸な事故もありますが、人を殺すことは一番の罪だということです。

モーセの十戒も一番最初に「殺してはならない」と出てきます。

神が創造されたものを人間が殺してはいけないのです。

間違って殺めてしまったとしても無罪放免とはなりません。必ず償わなければいけません。

許す、というのは出来た行為だと思われています。他人を許す人は出来た人。心の広い人。

逆にいつまでも許さず恨み続ける人は心の狭い人。

しかし許してはいけないものまで許したらそれは偽善です。

世の中には許してはいけないものが沢山あります。

その一つが殺人です。そしてすべてのです。

今の世の中善悪がごちゃ混ぜになってしまっていて、人々は許してはいけないものまで許してしまっています。

そして許していいものを許さない。

例えば今は同性愛は認めても、専業主婦には眉をしかめる人が多いのではないでしょうか。

同性愛は罪です。しかし専業主婦自体は罪でもなんでもありません。

一体何が正しくて何が正しくないか、皆わからなくなっています。

その答えがあるのが聖書です。RAPTさんの有料記事です。

これだけしかありません。

真理を知りたければ、この二つを読むしかありません。


最後に、あの被告が許されるべきかどうか、それは神のみがご存じです。

たとえこの世でどう裁かれようと、人が死んであの世に行けばそこには神様がいて

その人の行いに応じて正しい裁きを行われます。

この世で無罪でも、あの世で有罪になるかもしれません。

逆にこの世で有罪でも、あの世で無罪の判決が下るかもしれません。

私は家族が誰かに殺されても、全てを神の裁きに委ねます。

なのでたとえ死刑判決が出なくても、自分が望んだ刑よりも軽い判決が出たとしても

それほど苦しむことはないだろうと確信しています。

神が一番信頼できる裁判官だからです。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマ第一12章19節


…頼もしい言葉だとは思いませんか?



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